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◇村山(むらやま)貯水池



※ 水没前の様子
※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「青梅」(明治42)を使用したものである

 

 北(きた)川(=宅部(やけべ)川。柳瀬(やなせ)川支流)の上流に設けられた貯水池で、下流側の下(しも)貯水池、上流側の上(かみ)貯水池に分かれる。通称「多摩湖」。
 以下は市史から大まかな沿革をまとめたもの。

 下堰堤は大正5年5月23日起工、昭和2年3月竣工。上堰堤は大正6年10月1日起工、大正11年竣工。
 
東京市(当時)の人口増加に伴う飲料水の確保のため、上水道拡張事業として計画された。貯水池を旧大久野(おおぐの)村(現在の日の出町)に設ける第一案、現在の場所に設ける第二案があったが、明治45年に後者の案が採用され、大正2年9月7日内閣より認可。同年度から8年度まで7箇年の計画で事業が開始した。
 大正2年11月水道拡張事務所設置、中島鋭治(なかじま・えいじ)氏を顧問に迎えた。大正3年1月27日、東京府より許可を受け測量開始。
 
土地買収は難航。大正3年1月20日には買収反対を掲げた「移転地住民大会」が開かれる。大正4年2月15日、正式に用地の買収価格が発表されると、移転地住民は東京市に「承諾書調印拒絶書」を提出。以後も抵抗を続けたが、移転は大正4年のうちに始まり着々と用地は買収され、反対運動は終熄する。最後まで買収に応じなかった住民もいたが、土地収用法により強制収用となった。
 住民の多くは東大和市内に移転し、人々はこの地域の集まりを「移転場(いてんば)」と呼んだ。石川移転・内堀移転・宅部移転の名をとどめている。
 移転世帯は162戸(※1)。うち旧清水(しみず)村46戸(上宅部・中田(※2))、旧狭山(さやま)村56戸(内堀杉本)、旧蔵敷(ぞうしき)村5戸(※3)、旧奈良橋(ならはし)村5戸(荒ヶ谷戸)、旧芋窪(いもくぼ)村(石川)48戸、旧東村山(ひがしむらやま)村2戸。
 その後も東京市の発展により人口が増加し、水道拡張計画が継続。山口貯水池の建設に至ることとなった。

※1 調査により160戸、161戸とも
※2 集落の範囲が判然としなかったため、ここでは個別のページを設けなかった
※3 本村の飛地で、2箇所に分かれている。参考サイトより下流側が「東北河内」、上流側が「西河内」であるようだが、集落名もしくは地域の名称として用いられたかは不明。なお内訳は下流側に3戸、上流側に2戸

 


写真1 下貯水池堰堤

写真2 上貯水池堰堤付近。水域は旧石川

 

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